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気楽に撮った街中での1枚の写真をテーマに


by yoshi2479kawasaki
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バランス

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 「バランス」 日本語では、「平均」 「調整」という字があてはまるだろうか。

 とかく、日本ではバランスが重要視される。高度成長時代には中間層がぶあつくなる時代であり、バランスのとれた富や便利、幸せの分配が最上のことだったと思う。

 しかし、低成長時代や激動の時代では、バランスという概念では突破できない大きな壁があると思う。バランスという概念は、出る杭は打たれる社会や概念であり、突破に必要な、一種の狂った(常識とは違うという意味で)発想や技術が世にでない、正当に評価されない概念だと思う。

 現在、日本にはこの狂った発想や技術を正当に評価する人材が少ない、特に政治家、行政および企業トップに少ないことが大問題だと思う。一般人、特に若い人はこの狂った発想や技術を正当に評価する、駄目なものは駄目、良いものは良いとしがらみも関係なく、きちんと評価できていると思う。ファッション、秋葉原文化といったものはまさにその表現であり、若い日本人のファッションセンスが世界ナンバーワンであることも、その一つになっていると思う。

 大型補正で公共事業が地方の活性剤とか言われている、しかし、本当だろうか、経済再生という一点突破の場合には、直接投資は都市部、しかも日本経済の大動脈となっているところにほとんどを投資し、その間接的なもので地方を活性化するという方法が、都市部に集中する若い人の正当な評価力を生かして狂った発想や技術を展開し、経済を本格的に再生、というよりは新生するのに良いと私は思う。直接地方に公共事業を入れても結局は資金は借金返済にまわり、銀行に戻ってしまうという悪循環を作るのがほとんどのケースだと思われる。
# by yoshi2479kawasaki | 2013-02-11 08:00 | つぶやき

浮く

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 横浜みなとみらい駅のエスカレーター上空にはスヌーピーが浮いている。

 本当は浮いているのか、ぶらさがっているだけなのか、は不明(コストを考えるとぶらさげているということかと思う。)。

 「浮く」という言葉は、良い意味でも、悪い意味でも使われるのは不思議な言葉ですね。

 「浮上する」は良い意味 潜水艦にとっては「浮上する」は生き残るという希望だし、成績が「浮上する」はモチベーションが高まるということで期待となる。

 ところが「浮く」は、周りから「浮く」などと悪い意味で使われる。この場合の「浮く」は独りよがり、独善、孤立という意味であろうか、本当に寂しい言葉となってしまう。

 日本語は難しい、とつくづく思う。そういう日本語はなんだかんだ言って使いこなしているのに、明らかに簡素な英語を使いこなせないことに正直へこんでしまう。
# by yoshi2479kawasaki | 2013-02-10 08:00

向き合う

向き合う_d0288502_805100.jpg


 レンズを通して、カメラマンとお客さんが向き合う。この空間のなかでは結構なストーリーが展開する。

 哀しいストーリーもあれば、楽しいストーリーもあるだろうし、怒るストーリーもあるだろうと思う。

 そういう空間を作れるカメラという機械、デジタル新技術が存分に使われる機械であるが、本質はカメラマンと被写体との心のつながりであり、そこがつながらないといい写真やストーリーには決してならない。

 機械に支配されないを満喫できる機械だと思うので、使うことに飽きないし、いつでも、持ちだそうとする。カメラの魅力にはかてない。

 スマートフォンではどうだろうか、私の偏見かも知れないが、撮り方に愛や語りかけがないような気がどうしてもしてしまう。スマートフォンは通話やメールをすることがメインであり、そちらでは愛や語りかけはあるのだろうけど、スマートフォンの撮影機能は決してメインではないので、そこに愛や語りかけを存分に注入するなんてことはないのではないでしょうか。

 スマートフォンで撮った写真というのをウェブなんかでもお見かけするが、綺麗なものもあるとは思うが画角がせまくストーリーとして成立しているものはほとんどないと思う。こんな顔してるんだ~、こんな料理なんだ~、といった二次元的なものをみせているだけに過ぎないような感じを思ってしまう。

 カメラはコンデジでも、ストーリーが語れる。そこに違いがあると私は思っています。
# by yoshi2479kawasaki | 2013-02-09 07:00 | つぶやき

大雪予報

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 2/6は関東地方の大雪予報がはずれ、ほっとしたところだった。

 ところが、夕方には気象庁が「国民に迷惑をかけた」と謝り、気象庁に「おおげさだった」「電車が遅れたのは気象庁のせいだ」などという苦情の電話が相当数あったという報道記事があった。

 南岸低気圧はやっかいな低気圧というのは気象予報の世界では常識らしい。一般に1500m上空の気温が-6度で地上が2度より低いと雪ということであり、地上が乾燥していると雪になりやすいというようなことは、ウェブの発達した現在、ちょっとウェブ検索で探ればどこにでもでてくる。

 大雪だ~、というような予報がでたら、こんなことを調べてみたらいいのではないでしょうか。

 2/5の夜の帰宅時、結構湿度があり、気温のさがり方も少ないような気がしましたので、朝起きてみて1時間程度の気温の減衰がそんなに大きくなければ、大雪にはならないなと思っていました。
 朝起きてみると、雨でしたし、湿度が結構高い、気温の減衰も1/14のような急激な減衰がないので、ああ、
これは降っても、いわゆる牡丹雪にはならないなと思い、普段の靴ででかけました。

 結果はそのとおりでほっとしたところでした。予報や警報は災害の発生の恐れをみこして出すものですので、マックスでだすべきで、南岸低気圧の諸条件において整いつつあるのであれば、気象庁がマックスで出すのは当然だと私は思いますし、それに苦情を言うのはどうかと思うし、気象庁も謝るべきではないと思います。

 一方で、JRはいただけなかった、朝の時点で大雪見解はかなりの程度小さくなったのだから、早期に平常ダイヤに戻す決断をすべきだったのではないかと思います。湘南新宿ライン等の複雑な乗り入れは別として通常のラインはダイヤを戻すのも運転手さん、車掌さんの手当さえつけば問題なかったのではないでしょうか。
# by yoshi2479kawasaki | 2013-02-08 07:34 | つぶやき

ぼやける光

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 茨城県民の歌にある「世紀をひらく原子の火」という原子核分裂の火がまったくぼやける光となってきてしまっている。
 核分裂のエネルギーによる発電(電気の発生)は、コントロールさえきちんと出来、放射性物質の漏れを防止さえできれば、効率的、かつ、クリーンなものであることは、原子力発電の基礎を学べば誰でも理解できますし、私でさえ理解できています。

 従来は「マス」という概念が、こういうエネルギー技術に限らず全般において「効率化」を支配してきました。巨大ダム、巨大原発・・・・。ただ、余りにも人間のハンドリングできる大きさと比較して巨大すぎるものとなってきてしまっているのも現実なのではないでしょうか。ハンドリングできなければ、暴走を生み、制御できなくなり、自然の摂理に基づき、どんどん事象が進んでしまい、結果として人類に大きな影響を与えてしまうのだと思います。

 情報技術においては、既に「クラウド」というシステムがほぼメインになってきており、個々のハンドリングできるシステムの巨大な集合体としてアクティブしているので、暴走・制御不能はあるものの、個々を特定さえすれば、ハンドリングできるので、事象は一定の時間で止まり、復帰してくる。

 水という比熱の大きな制御体を使える原発は、水という強力な制御体を使えるのだから、ハンドリングできる大きさであれば、暴走・制御不能という事態は情報技術よりはるかにやさしいのでないだろうかと思う。そうすると、現在のような巨大なシステムではなく、東芝は既に技術を持っているとされているが、ハンドリングできる大きさの原発のクラウドによる発電という体系は十分可能なのではないかと思う。

 ハンドリングできる大きさであれば、例えば、レーザーや加速器による核種変換による短寿命化等々も現実的な技術展開になり、モジュール化された原発の圧力容器及び核燃料の最終処理プロセスも一体化した原発展開も可能になるかと思うのだが・・・・。

 短期的には既に体系化された巨大システムがと考えるのだろうけど、最終処理、事故を想定しなければならない長期的な経済性で考えていくことが原発には必要なのではないでしょうか。それは投資だし、将来は吸収可能なものでしょう。

 と、私の持論的なことを書いてしまいましたが、原発は真正面から議論すべきものだと思います。

 という観点からすると、今日の読売の社説「原子力規制委 組織の運営方法に問題がある」は極めて不愉快な社説だった。読売は一環として原発再稼働を主張している、その主張は一つの考え方として正面から打ち出しているので理解できる話である。
 しかし、今日の社説はその主張の側面からの補強という観点で書いているのだろうけど、私にはまわりくどく、理解しずらいものだ。
地震の力がとてつもなく大きいものであることさえ知っていれば、活断層議論に規制委員が正面に受け止めて自ら乗り出すことは当然だと思う。
 それほど、地震の力とは人間にとって制御不能に近いものを与えることがある。米国の例がさも良いように書いているが、こと地震においては米国と日本ではポテンシャルが違い過ぎるので、同列では語れず姿勢に問題がある。
 いずれにしても、側面論議は不愉快だ。もっと、正面から批判するなら批判したどうだろうかと思うし、議論をふっかればよいのではないかと思う。
# by yoshi2479kawasaki | 2013-02-07 11:11 | つぶやき